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執筆者の写真Masanao Kinjo

受けも主役

更新日:2023年11月5日

養神館合気道では毎回の稽古で基本技を二人1組でじっくりやります。


技を施す方を「仕手」

技を受ける方を「受け」


といって、それぞれの役割があります。

この相対稽古では仕手も受けも主役と言っていいと思います。


今回は受けのお話です。



型稽古はお互いに正しい動きを作り上げるためにある程度協力しながらやると効果的です。

今回はその中での受けの役割について書きます。


受けが協力すると言っても妥協とは違います。


例えば先輩は、初級者の受けを取りながら「こうですよ」と正しい方向に導いていく必要があります。

そして、動きが正しければ威力はまだまだでも、その力の流れに乗ってあげて技を最後まで持っていくお手伝いをします。


例えば初級者は、仕手の先輩の動きに積極的についていって受けを取るうちに技の一連の流れが見えてくる。

どう崩されているのかを自己観察することで、自分が仕手の際の崩しへの理解が深まる。


このへんの加減がわかってくると稽古がスムーズになると思います。

能動的な受けをとることは初級者、上級者双方にとってもおおいにメリットがあります。

初級者どうし、上級者どうしでも同じです。


これが合気道の型稽古の受けの素晴らしさの一つだと思います。

老若男女、黒帯、白帯が一緒に稽古できる体系になっている。




ここで、受けの悪い例を挙げておきます。


私が良くないと思うのは主に2種類。


「死人」と「お地蔵さん」です。これは私が便宜的に名付けました。


死人はぐにゃぐにゃで芯の無い受け。


お地蔵さんはただひたすらその場で固まって堪える受け。


どちらも初心者はある程度仕方ない時もあると思います。それを直していくのが稽古です。しかし何年もやっていてそれではちょっと問題だと思います。


どちらも力の流れが無いというのが問題です。

「相手の力を利用する」という、本来の合気道の理から外れているのではないでしょうか。


そもそも死人に技を施す必要はありませんし、動かないお地蔵さんは当て身で倒せばいい。大昔なら据えものとして刀で斬ればよかったわけです。

そういうところに想像が及ばないと稽古が生きてこない。リアリティがない。


ましてや動機が相手の邪魔をしたいとか、相手を試してみたいなどという場合は言語道断だと思います。



もちろん指導者を目指す人たちが、死人だろうがお地蔵さんだろうがとりあえず技の形に持っていく、という研究をするのは否定しません。正直に言えば、私もやりました。

ただし稽古時間外に仲の良い人と双方納得の上で行えばいいことです。

また、多少なりとも「稽古をもてあそんでいる」自覚を持ったほうがいいようにも思います。筋違いの事をできたからといって増長するのは魔境へまっしぐらでしょう。

あと、無用の怪我のリスクが高いです。



受けは「力を出す」

だらっとした死人もコチコチに固まったお地蔵さんも自分の中で力が完結した状態で、戦いとは縁遠い体の状態です。

いくら仕手の時に張り切って技を行っていても、受けでそういうことをしていたら確実にそういう体の癖が固定化されていきます。

いざ、現実に襲われた際にだらっとして何かが起きるのを待っているのでしょうか。体を固めてそこに居付くのでしょうか。ましてや相手が刃物を持っていたら、、、。


だから受けはあくまでも力を「出す」

もっと言えば「動き続ける」

型の場面場面で止める時も動きを秘めたものにしておく。居つかない。


相手から出てくる力の方向を変えたり、受け流したりするのが合気道の稽古です。

だから受けは力を出して技の呼び水になるというとても重要な役割があります。

決してやられ役ではありません。

剣術でいえば稽古では上級者や師が受け太刀を務めます。合気道でも同じくらい受けの役割は大きいと思うのです。


自他共栄の稽古になるように、正しい受けをとっていきたいものです。

正しい受けを心がけることは、小さな自己から解放されるチャンスでもあると思います。

少なくとも私はそうしてきました。

そしてそれが一番の上達方法だと強く信じています。


今回は以上です。


もっともっと養神館合気道の素晴らしさを多くの人に伝えていきたいです。


押忍。


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